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第八の鉄人
東京都目黒区 T.S(公務員)
私は北海道出身の公務員です。30歳の時、岡山へ転勤、その8年後に東京に来てから現在まで十年余りとなります。
転勤の度に自己所有の物件を売買するため、不動産投資に興味を持つようになり、宅地建物取引主任者の資格まで取得したほどです。
新聞広告持参でアパマンプラザへ
アパマンさんとお付き合いするきっかけは、昨年1月に拝見した新聞の折り込み広告でした。ある東京の不動産業者の誠意の無さから不快な思いをしたので、もうマンションの賃貸をする気は無かったのですが、根が好きなものですから、ついつい好奇心で東京事務所まで訪ねて行ってしまいました。応対してくださった種田さんは、私の質問に実に的確に答え、その合間に次々とかかってくる電話にも、こちらがじれったくなるほど親切、邸内に説明をされていました。彼の態度に感心し、ますますアパマンさんへの興味をかき立てられた私は、翌週の週末にはもう、札幌行きの飛行機に乗っておりました。(行動と決断が早いのが私の取り柄です。最大の弱点でもありますが・・・。)
札幌本社には山崎社長以下キビキビと礼儀正しくて、とても良い印象を持ちました。特に山崎社長は迅速な行動派で、それでいて細かい所にも気を配る、なかなかの人物とお見受けいたしました。札幌と東京は「動の山崎」「静の種田」といった感じで好対照ですね。
札幌に着いたその日から早速、山崎社長の運転で5ヶ所見てまわり、そのうち2ヶ所の購入を決めました。翌日は忙しい社長を連れ回すのは申し訳ないと思い、一人でマンション情報のチラシを片手にめぼしい物件12ヶ所を見てまわってから帰京しました。
そのため、それ以降は資料と写真だけで大体判断がつくので、物件の連絡がある都度、飛んで行かなくても契約ができています。
さて、この度の寄稿ですが、社長との全くひょんな会話からでした。
私「社長、アパマンニュースの鉄人シリーズ、面白いですね。私、あれ読むの楽しみにしているんです。」
社長「ああ、そうですか。じゃあ今度書いて下さいよ。Tさんの不動産暦は国内は札幌、函館、岡山、東京、海外では香港、マレーシアなど、いろいろ経験豊富でいらっしゃるから、面白い話がたくさんあるじゃないですか。是非お願います。」
という訳で、日経新聞の私の履歴書のような感じで、これまでの私の投資暦を紹介することになりました。お役に立てるかわかりませんが、どうぞ、しばらくの間お付き合い下さいませ。
車を諦らめ山林購入
私が初めて不動産というものに関わりを持ったのは、昭和45年、まだ20代の頃でした。免許取りたての時、友人の車で初めて路上に出たところ、10メートルも行かないうちに電信柱にぶつけてしまい、それ以来すっかり運転に自信を無くしてしまいました。(ブレーキを踏む替わりにハンドルを必死になって引っ張る癖があるんです。飛行機なら向いているのかもしれません!?)自動車を購入するつもりで貯金をしていたのです、仕方なく諦らめて替わりに何か形に残るものをと購入したのが、札幌の山林200坪(当時の車と同じ50万円)でした。私に運動神経がなかったために、人より少し早く不動産投資のスタートが切れたわけです。
それからこの土地は、3年後に岡山への転勤が決まった時に、75万円で売却することができました。住んでいた家は、新聞社支社長の社宅として賃貸することにしました。
岡山へ転勤
岡山に移ってからは、家賃の安い公務員住宅に入りました。しかし、不動産投資の魅力にとりつかれはじめていた私は、すぐに職場付近の不動産状況を調べ、半年後には賃貸に出していた元の家を売却し、(売却代金は400万円。母が200万円で購入し、14年間住み続けていた家でした。)マンションを2戸購入しました。同じタイプの東南の角部屋3DKで1戸は現金で母名義、もう1戸は勤務先で住宅ローンを組んだ私名義で、各々550万円でした。
初めてのマンション暮らしは快適でした。1戸を私専用に使い、宅建の試験勉強をしたりしました。が、やはり年寄は土が恋しいらしく、結局母のために1年もしないうちに戸建住宅を購入する計画を立て始めることになってしまいました。まず、私がお気に入りのマンションは出来れば2戸とも売りたくありません。北海道の家を半年間賃貸に出したとき、初めて家賃収入で戸建購入ローンを支払う計画を立てました。そうして早速、給与振込、公共料金の自動引き落としをしていた岡山で一番の地銀に融資のお願いに参りましたが、当時は女性には全くローンの道は開かれておらず、全然受け付けてもらえませんでした。
融資の基準は信用、日頃の挨拶も大切
すぐに計画を変更する気にもなれず、だめで元々と、私は次に地元の相互銀行に出向きました。すると出てこられた融資担当者は、なんと顔見知りの人でした。毎朝の出勤時に同じ場所ですれ違うため、2ヶ月目に思い切ってこちらから「おはようございます!」と声を掛け(初めはびっくりされていたようでした。)それから毎朝、お互いに時候の挨拶程度を繰り返していただけの間柄でした。ところが結局その事が決め手となって、私は融資を受けることができたのです。その担当者は次のようなことを言ってくれました。「銀行がお金を融資する基準は、信用できる人かどうかです。いくら担保物件があってもそれは単なる物にすぎず、これから先どうなるか分かりません。Tさんは毎朝決まった時間に出勤されてましたね。あまりに明るく元気なので商店街の女将さんかな?と想像したりしていましたが、公務員さんとは思いませんでした。毎朝私を1日爽やかな気分にしてくれた貴方の挨拶は貴方の人柄を物語りそれだけで貴方の信用であり、財産なんですよ。」
この時の融資が、結局その後の投資活動の基盤となりました。投資にはお金がつきものですから、銀行といかに上手く付き合えるかどうかも、成功のための大きな条件の一つだと身に沁みて感じました。その時銀行からは800万円の融資を得、1120万円の建売住宅を取得できました。念願かなって、マンション2戸を売らずに済んだ上、家賃収入から勤務先の住宅ローンと銀行ローン返済額を引いても、まだ1万円弱の儲けが出ました。つまり、家賃収入のおかげで私は新築の家にタダで住んだことになりました。しかし残念ながら母は建築中に他界してしまいました。「女独りで生きていくためには、どんなに小さくても自分の家を持つこと。そうすれば人に頼らずに強く生きてゆくことができる。」と生前母が話していたことを遺言と思って、その後も守り続けています。
その6年後、今度は東京へ転勤となり、それを機会にまた不動産の投資活動が始まりました。この続きは次回にさせていただくことにして、長くなりましたので今回はこの辺にさせていただきます。